このメッセージは2005年12月に自主制作したCDの為に書いたものです。

from katsu-tsun

皆の前から姿を消して早いものでまるまる2年がたったけど(闘病生活中の俺にはとてもとても長い2年だったが)皆は元気かな?
このCDの中の俺は元気です。これらの歌を唄っていた頃には現状の自分の姿は想像する事すら出来なかった。もう2度とこういう声はでないのかもしれない。
こんな身体になった原因は、もしかしてこの世に神と言う存在があるのだとしたらそれは俺の『らしくない/ガラにもない事』という名の三つの大罪を犯したせいかもしれない。

 <大罪その1>
意外に思うかもしれないがそれは俺が一番永く携わってきた音楽活動である。なぜならメンバーに恵まれなかった。と言うより常にメンバーに欠員がいた。TheAftermathと言うバンドがあって、テレビに出演したりCDをリリースしたりと様々な活動をして来たが、幾多のメンバーチェンジをくり返し、最終的に俺が作曲とギター/ヴォーカルを担当し、作詞とベース/コーラスを担当する彼との、俺が長年夢に描いていたレノン/マッカートニーの様な(そんな上等な物ではないけど)ゴールデンコンビ時代もあったが、それも長くは続かずその彼も家族の事情で引退した。今思えばその時が俺にとっても引退の潮時だったのかもしれない。しかし懲りない俺は自身の音楽を続ける為に、手伝いとか掛け持ちの頼り無いメンバーでしのいだ。能書きの多い連中の間でスムーズに活動が進まず俺のストレスは溜まる一方であった。別に他人のせいにする訳ではないがその能書きの多い連中でさえも辞めないでいてくれたら今も身体は健康で、音楽活動も続いていたかもしれない、と思えてしまう。(一緒に演ろうと言ってくれた先輩もいたが、後に記してある通りの俺の諸事情で忙しくて会えずじまいだった。)
それから音楽出版社に身を置く友人もいたがその彼のコネと言う名の恩恵を受けたためしがない。彼は俺のバンドよりも俺の友人のバンドの方を気に入っていた様である。結局「お前には向いていないのだから早く止めなさい。」と言う神の啓示だったのかもしれない。

 <大罪その2> 
オートバイ。実は30代の半ばで限定解除免許を取って大型バイクに乗っていたのだ。
「お前と俺、二人っきりになれる所へ運んでくれよな。」である。しかし車検までの丸々2年間しか堪能出来なかった。俺とツーリングに行く為に妻もバイクの免許をわざわざ合宿で取りバイクも購入したと言うのに・・・。やはりこれも「止めなさい。」と言う神の啓示だったのかもしれない。

 <大罪その3>
結婚。結婚なんて一番俺らしくないだろう。それが証拠に健康な身体を維持しての結婚生活は2年足らずだった。現在は介護という名の呪縛で妻の自由を奪うという4つ目の大罪を犯している。

♪前を見るよな柄じゃない。後ろ向くよな柄じゃない。よそ見してたら泣きを見た♪
 『圭子の夢は夜ひらく』藤 圭子

死の淵に立って強烈に思った事がある。それこそ意外に思うだろうが子供が欲しいと思ったのだ。つまり自分の分身である。子供の人格を無視した自分本位の思いではあるが、自分がこの世に存在した証しが欲しいと思ったのである。とは言え自分自身がそうだった様に分身とはいえ親の思う様に育つとは限らない。そもそも俺は子供が嫌いである。小さい頃はギャーギャー煩いし、本当に自分の子供かどうかさえ疑わしい。
「あ〜、俺にそっくりだ。この子は自分の子に違いない。」とやっと確信出来た時には皮肉な事に手のつけられない悪ガキに成長しているのである。(俺の父親もそう思った事だろう。)しかし自分の分身を残すと言う事は、自分の生きた証しを残すと言う事である。それには間違い無い。残念ながら現在、我が家では子供を作る事など出来ないが・・・。だから俺の場合は自分が生きた証しとして、またも神の啓示に逆らってこのCDを残す事にした。
何気ない平和で幸せな今日が、いつもと同じ今日と言う日が明日も来るとは限らない。
まさに『Tomorrow never knows』である。正確に言えば一秒後の事すら分らないのだ。
一秒後自分が生きてるか死んでるのかさえ分らないのだ。いつまた死の淵に立たされるか分らない。だから自分の生まれ変わりなんておこがましいがガラにもなく子供が欲しいなんて事を考えたのだ。

  ♪今日は別れた旅人達も生まれ変わって歩きだすよ。♪

『時代』中島みゆき

このCD製作に協力してくれた人達。俺の事を思って妻の目の前で涙を流してくれた人達。
手紙、FAX、Eメールなどで励ましてくれた人達。
妻が全部ファイルして保存してあります。
本当にどうもありがとう。感謝します。
そして葉書一枚、電話一本、全くくれなかった音沙汰の無かった人達。生前葬をやる人の気持ち/意味がわかった気がする。俺の事を誰がどの位思ってくれていたかが良く分かりました。ありがとう。
今回の事を全然知らなかった人はともかく、知っているはずの人達の態度には驚いた。
妻にも「人目も憚らず泣き出す人もいたのに、片や冷たい人もいるのね。」と言われた。中には俺が死んだと思っている輩もいる様だがご希望にそえず俺はこうして生きているし、頭脳明晰で嫌味な所は相変わらず変わっていない。(この文章を読めばよく分ると思うけど。)この病気になっていろんな人の本心/欲望が分る様になった。俺の財産と呼べる程の物ではないが、年代物のギター10数本やオートバイ、その他の俺の持ち物は誰にも譲ろうとは思っていない。全て妻だけに譲ろうと思っている。正式な病名については妻の方が詳しいが、俺の病気は即死率50%、つまり二人に一人は死ぬって事らしい。どこの病院に行っても「よく生還出来ましたねえ。」とか「奇跡ですねえ。」と言われ、どの医者も口を揃えて言う事は「良かったですねえ。」である。果たして本当に良かったのかどうか?奇しくも俺と同じ病気で即死した強靱な強さを誇っていたプロレスラーの橋本真也氏の記憶がまだ新しいが、もし彼が生存していたとして、誰が車椅子姿の彼を見たがるだろうか。おそらく彼自身も人前に出るのを嫌うだろう。それは俺も同じだ。誰とも話したくないし会いたくない。例えば矢沢永吉氏や館ひろし氏等が同じ様に車椅子になったら人前に平然と出て来れるだろうか?
ちなみに我が家では車椅子の事を『パー車』と呼んでいる。なぜならくるくるパーの乗り物だからである。
医者達は皆、蘇生の為には訳の分らない機械を一杯使い、テクノロジーを駆使するくせに、生還後は何の治療もせずリハビリと言う名の自然治癒まかせだ。だったらそのまま蘇生させずに殺してくれれば良かったのに、と思う。

妻は些細な事でも喜ぶ。人間の身体はその殆どが筋肉から出来ている。例えば咳をするのも瞬きするのも食べ物を「ゴクン」と飲み込むのも筋肉なのだ。今は随分回復してそこまで酷くはないが、俺は病気でその全身の筋肉が一瞬にしてコントロール出来なくなった。だから妻は咳や痰を自分の力で出せる様になっただけで大喜びしたのである。身体にかゆみを感じれば「それは神経が回復して来た証拠だ。」とまた大喜びする。でも例えば腋の下がかゆい時など自分で掻けない俺は「肘から約30cm胸側の指2本分下の所を掻いてくれ。」と頼むのだ。俺はまるで小説家になった様な気分だ。この面倒な説明をする位なら痒みに耐えてしまおうと思う事も少なくない。俺が最初どんな病状だったかと言うと、全身の力が抜け感覚が麻痺し、まるで『くたくたジャガー』(これを知っている人は俺と同世代に間違いない。)の様な状態であった。例えば自分では『気をつけの姿勢』で寝ているので当然腕は両脇にあるものだと思っていたが身体が動かせないので妻に「俺のドクロのリングをした右手を見せて。」と頼むとどういう訳だか頭の上から腕が出て来た。つまり俺は『万歳の格好』で寝ていたのである。そんな事も気付かない程全身の感覚が麻痺していたのである。妻の言う通り身体が回復するに従って今度は逆に全身に力が入りっぱなしの状態。まるで江頭2:50の様に常に全身が硬直しているのである。江頭の場合はギャグでそうしているので抜こうと思えば力が抜けるが俺の場合はギャグではないので365日/24時間、力を抜きたくても抜けないのである。肩凝りの比ではない。なので例えばサンドイッチを食べようと手で掴むと力のコントロールが出来ないので握り潰してしまうのである。是非皆には全身に力を入れてウンコをする時の踏ん張る様な感じで食事をしたり入浴したりしてみて欲しい。そうすれば俺の今の状態が少しは体感出来るかもしれない。言葉はどうにか妻と日常会話をかわせる様になったが、まるで息切れしたボビー・オロゴンの様な声だ。とても人前では話せない。特にペラペラと早口でまくしたてる昔の俺を知っている友人知人は現在の俺を見たら愕然とするだろう。
倒れた当初から今日まで全く変わらず回復していないと思われる箇所がある。まず手足の痺れ感。特に右手がかじかんだ様にずっと冷たく感じている。それから顔面にまるでアロンアルファを塗って乾かしてパリパリになった様な感覚がある。もう一つは背中に異物感があって最初のH病院の時はまるで『座椅子』が張り付いた様な感じで、次に転院したTリハビリ病院の時は『亀の甲羅』を常に背負っている感じ。これらは俺と同じ病気でも患者それぞれ感じ方が違って、顔面のアロンアルファが「和紙が張り付いた感じ。」と言う人もいるし、背中の『座椅子』や『亀の甲羅』を「鉛が張り付いている。」と言う人も居た。しかし健康体の妻でも肩凝り症の彼女は「首の付け根に石が詰まっている。」等と言う。いずれにしてもそんな事は実際には全く無くすべて錯覚だが、錯覚と言うにはあまりにもリアルに感じている。これらは現在も続いている。

♪冷たい雨が僕の目の中に降る 君の事以外は何も見えなくなる♪

 『傘がない』井上陽水

例えば生まれつき全盲/めくらの人だったら目に見える世界を知らないし、見えるってどんな事かも分らないだろう。見たいとも思わないかもしれない。またはボケ老人の様にくるくるパーだったらそれまでの自分の記憶を忘れてしまっているだろうし何が楽しい事で何が嫌な事なのかももう分らなくなっているかもしれない。  
幸か不幸か俺にはそういう障害は無いのでやはり健康で楽しかった時の事をどうしても忘れる事が出来ない。倒れた直後の記憶も鮮明に覚えている。自分の目玉が動かず、まるでカメラの手振れの様な視界で救急車でH病院に搬送される一部始終を覚えている。一番最初 ICUで思った事は「ああ、『太陽が一杯』だ。」である。何日居たかは定かではないが 最初に運ばれた ICUの病室で俺の向かい側のベッドにはあの有名なジャズドラマーのジョージ川口氏が居た。当然、世良譲氏などの豪華な見舞客も何人か来たが俺には彼のベッドの傍らにずっと佇む黒い服を着た人陰の様な物が見えていた。「あれは死に神か?」と思ったとたんにピーっというアラーム音が鳴り響き彼はこの世を去った。その時妻は俺に「有名なジャズ屋が死んで無名のロッカーが生き残ったね。」と言った。多分あの黒い人陰は迎えに来た死に神だったんだろうと思う。その事以外にも、死に神らしい人陰とは何匹も遭遇している。その遭遇した数々の死に神の事についての話は次回の講釈にて。(次回が来るかどうかは分らないが。)

どこかの坊主が「神秘の国や霧の都で本物の岩石音楽を自分は体感するのだから、本物の岩石音楽を体感した事の無いあなた達には何の意見もされたくない。」と捨てゼリフを残しお気楽旅行を楽しんでいる頃、俺は死の淵に立ち、何匹もの死に神と会って来た。「死に神に会った事のない君には死に神の事を意見されたくない。」と返しておこう。きっと君は「そんな事は言っていない。」と言い訳するだろうがこちらは君の捨てた女性も含めて4人がそのセリフを聞いている。そしてこうも言った。「故郷に帰って、神秘の国と霧の都帰りのマスターとなり飲み屋/クラブを営業すれば田舎者はそれだけで騙されて一杯集まって儲かるはずだ。」このセリフも君の捨てた女性を含めて4人が聞いている。
確かに俺は神秘の国にも霧の都にも行った事がないし本物の岩石音楽を体感した事は無いのだろうが、少なくともこのCDに収録されている曲を作ったり唄ったりする事は出来る。霧の都帰りの君の事だからきっとこのCD以上の楽曲を作ったり唄ったり出来るんだろうな。期待してます。
いつまた死の淵に立つか分らないのでもう少し心おきなく伝えておこう。きっと君に気を遣って(気を遣う程の相手とは思えないが)最初からこの文章を見せないか、見せたとしても「どうせ死に損ないの戯言だから気にするな。」と何故か君の味方をする人がいる事でしょう。○○○○さんの様に。

♪When you were a child you were treated kind♪

 『19回目の神経衰弱』ザ・ローリング・ストーンズ

身体障害者手帳という物がある。俺もこれを渡されたが、生まれてこのかたこんな屈辱的な事は後にも先にも無いだろう。つまり「お前は身体障害者だ。」と烙印を押されたのと同じ事なのだ。自分が身体障害者だなんて今も気持ち的にとても受け入れられていないのだ。しかしこの身体障害者手帳を受け取らないと車椅子やベッド、家の改装工事などの費用が自腹になってしまうのだ。そう妻に説得され屈辱を噛み締めながらこの手帳を受け取った。これは俺だけかもしれないが同じ烙印を押されるなら、アルパチーノの『狼達の午後』よろしく銀行強盗でもやらかして刑務所に入り、「お前は前科者だ。」と烙印を押された方がよっぽどカッコイイと思う。

この闘病生活も長く送っているとどうやら精神まで病んで来る様である。数々の台風や地震の被害に合い亡くなった人は気の毒だと思うが生き残った被災者達が「家が崩壊してどこにも帰れない。」等と仮設住宅や避難所で涙を流している姿を見ても「いいじゃない。逃げ出せる足があって。瓦礫の下から這い出せる腕力があって。」と少しも気の毒に思わないし「いっその事死んでしまえば良かったのに。」と思う。もし今の自分がその立場だったらそれこそ即死である。逃げたくても自分の足では歩く事すら出来ないんだから。俺を慰めようとして「あなたよりもっと身体の具合が悪い人もたくさんいる。」とか「辛かったり苦しい時は楽しかった時の事を思い出しなさい。」等と言う医者もいるが、年代物のギターをガツーンと弾いた時の感動や大型バイクのエンジンの鼓動や爆音を知っている俺にはそれ以外の楽しかった事なんて何も無い。それを味わえない今の俺には何の慰めにもならない。反って逆効果だし惨めな気持ちになる。

リハビリを受る施設はどこもスポーツジムを小さくした様な所だが、やはり病気の性質上「もういいだろう、これ以上長生きしなくても。」と言いたくなる様な老人が多い。「あなた達がリハビリで歩ける様になる頃には今度は老衰が待ってますよ。三寸の川を渡る練習ですか?」と言いたくなる。俺は自分を北朝鮮の拉致被害者と重ね合わせる事がある。彼等と俺は自分の意志では何も出来ないのである。北朝鮮ついでにテポドンでも東京に飛んで来て「皆、一斉に死ねばいいんだ。」と心底思う。もし一生回復しないと宣告された場合、俺には心に誓っている事がある。カレー屋の前でわざとウンコをもらしてやるのだ。車椅子に乗っているだけでどうせ他人からはくるくるパーに見られているのだから。

♪力の限り生きたから未練など無いわ♪

『昭和枯れすすき』さくらと一郎

昨日のニュースで代々木公園に住みつくホームレスの特集を見た。そのホームレスの中の一部には大企業の幹部クラスまで出世して定年真際に突然リストラにあった人もいる。そういう人は再就職するのが難しいらしい。やはりプライドがそうさせるのか今さらコンビニなどで若い店長の言う事なんか聞いていられない。そう思ったら父親の顔が浮かんで来た。何人かの諸君は知っていると思うけど、実は父親が代表取締役社長をしていた会社が倒産して父親も母親も妹も自己破産した。そのあおりをくらって俺も妻も自己破産だ。母親方の親戚は父親に「タクシー運転手でもやったらどう?」などとまぬけな事を言ったらしい。(皮肉でわざと言ったのかもしれないけど。)代表取締役社長まで勤めた父親に今さらそんな下働きが出来るわけがないし、俺としてもやって欲しくない。

そんな大変な時にも出会いは突然やって来るものだ。父親の会社が傾いていようと、同時多発テロが起ころうとお構い無しにツインソウルの様な妻とは加速度的に恋に堕ちた。妻は大変な時に俺と結婚したものである。
会社が倒産する前から父親は糖尿病を患い、会社が倒産した直後には母親が子宮癌を患い全摘出手術を行って一応完治し元気にはしているがまたいつ再発するかも分らない。その約1年後に俺がこのザマになり、妹は腎臓を患い二つある腎臓の内一つしか機能していない。人工透析になるのも時間の問題らしい。俺の家系はもうボロボロだ。
俺の妹は自暴自棄になっている様だがその気持ちは今の俺が一番よく分る。でも妹よ、安心しろ。お前が人工透析を免れない様ならば、俺の腎臓をくれてやる。父親も母親も病気持ちだし、年齢的にも腎臓移植には耐えられないだろうが、俺は内臓だけはやられていない。それでお前は身体を治して、結婚する時は両親の自己破産は隠せないかもしれないが俺の事は最初からいなかった事にして一人っ子だと言えばいい。
皆は信じられないだろうが実は俺の両親と妻の両親はまだ一度も対面を果たしていない。今やあまりにも貧富の差がありすぎてどのツラ下げて会えばいいんだろう。なので多分このままもう会う事はないだろうと思う。介護生活で妻には大変苦労をかけて本当に感謝しているが、「○○してあげてるのに」とか、ビデオデッキを「(妻の実家に)買ってもらったくせに」とか「金銭的な援助はいつもウチからばかり(妻の実家)で俺の実家からは全然ない」等と俺の実家の台所事情を知っているくせに言われると素直に感謝の気持ちを表せなくなる。これを聞いて様々な意見があると思うが、この暴言ともとれる妻の発言は、本心からではなくそこまで介護生活が切羽詰まっているせいだと信じたい。俺の実家だって会社が倒産する前は軽井沢に別荘を持ち、東京は杉並の一等地に住居を持ち、それなりに裕福だった。そう、俺はお坊ちゃまだったのだ。

元の身体に戻れると言う医者や妻の言葉を信じて現在リハビリ中だが、もし戻れない時はこの文章やこのCDは俺の遺書の様な物になるだろうな。ほぼ同時期に似た様な病気で倒れた著名人に坂上二郎、西城秀樹、ミスター長嶋らがいるが、西城秀樹は発病前と比べて80%程の回復であるらしい。自分もその位の回復をしない限り友人知人の前に出る事は二度とないだろう。でももし身体が元に戻ればこのCDは単なる贈り物になるだろう。もちろん後者を願っているが。<リハビリ生活は『 just a little bit 』しか『getting better 』なので『 soleil 』にはまだ遠い。>

話は変わるが、このCDが皆の手元に届く頃にはもしかしたら俺はもうこの世にいないかもしれない。なぜなら妻の同級生の強力なコネで(俺の同級生達とは大違いで、妻の同級生は皆本当に親切だ。)治験を受けるからだ。治験と言うのはまだ許可されていない手術とか投薬とかを受ける事である。つまり簡単に言えば人体実験を希望している訳である。もし失敗して死んでも文句が言えない様に誓約書を書かされる。
今の俺には荒唐無稽な幸せなど何処にもない。ただ一切は過ぎて行く。または、どこかの病院に入院して妻と離婚して介護から解放してやってるかもしれない。その位しか今の俺が愛する妻にしてやれる事は無い。

♪夢の様な過去は過ぎて行く♪

『ひとり』デイブ平尾


                  2005年10月22日  カツ

PS:
★ もし生きていたらこのCDの第2弾、第3弾も製作するつ もりだ。 
★お断り:本文中お心当たりのある方、実名もイニシャル等も一切挙げていません。
(著名人、俺の本名を除く)
★最初、この文章は全部英文にして和訳して読んでくれる人は情に厚い人か、余程の暇人だろうと記そうと思ったが、妻に「情に厚くて和訳したくても、学力的に出来ない人もいるんじゃない?」と言われほぼ全部日本語で記す事にした。

常磐のハードゲイは英語が苦手、フォー!!





from sally

ご存じの方もいらっしゃるかと思いますが、カツが倒れたのは今から約2年前、
2003年10月22日の朝の事です。その日は朝から雨模様で、休日だったカツは私をバイクで会社まで送ろうとしていたのですが「雨が降ってるから電車で行くよ。」と断わりました。
すると会社について暫くしてカツから携帯に電話がかかってきました。(メールならともかく仕事中に電話がかかって来た事はそれまで一度もありませんでした。)そして「物凄く具合が悪いんだ。帰ってこれない?」と言うのです。最初は「昨日飲み過ぎたせいじゃないの?大人しく寝てたらすぐ良くなるよ。」と断ったのですがその2-3分後にまた電話があり、「尋常じゃない。メールが打てない。とにかく帰って来て。」と言うのです。さすがにこれはおかしいと思い、私は上司の許可を得てすぐに家に帰りました。

会社から家までは30分足らず。それなのに帰ってみるとすでにカツはトイレで倒れていました。倒れた拍子に床のタイルにぶつけたのか頭は血だらけで「聞こえる?分る?」と呼んでももう自分の力では起き上がれなくなっていました。それでも自分で「救急車・・・」とか「また一緒に帝釈天に行くんだからまだ死ねない・・・」とつぶやいていました。朦朧としながらもまだ意識はあった様でした。
救急車はすぐに到着し、15分位で某都立病院に運ばれました。倒れてから1時間以内に病院に運ばれたのです。これがカツの悪運の強さ。そしてさらに運が良かったのはその時の救急外来の担当が脳外科専門の先生だった事。通常いつも必ずその専門医が救急外来を担当しているとは限らないのです。
カツはすぐに処置室へ運ばれました。私は看護婦さんに「こちらでお待ち下さい。」と言われました。部屋の前で待っていた時間の何て長かった事でしょう。暫くして担当の先生に「お話がありますのでこちらにいらして下さい。」と別室へ呼ばれました。
「奥さん、落ち着いて聞いて下さい。」そう言って先生はCT画像を見せながら「脳幹部出血です。その中でも最もやっかいなセントラルタイプと言って脳のほぼ中心で出血を起こしています。この状態ではいつ亡くなってもおかしくありません。3日間は予断をゆるせません。そしてもし小康状態になったとしても植物人間か一生寝たきりになる可能性もありますので覚悟しておいて下さい。」と言われました。
その時の事を思い返すと今でも泣きそうになってしまいます。

ICU(集中治療室:蘇生を要する患者がその治療を受ける部屋)のベッドに横たわったカツは口からも鼻からも腕や胸にも一杯チューブを繋がれ、動いたのはわずかに指先と眼球だけ。それでも私が「分る?」と顔をのぞき込むと頷く様に瞬きしました。
その日から私の介護生活が始まりました。
ICUは面会時間が一人10分以内と言う規則だったのですが私はガンとしてカツのベッドの横を離れませんでした。何度も何度も看護婦さんに「奥さん、規則を守ってもらわないと困ります。」と叱られましたが最後には呆れて黙認してくれる様になりました。

カツは身体こそ動きはしませんでしたが、意識はずっとしっかりしていました。私は何とかこのカツの脳に刺激を与えなければと考えました。その時のカツは声を出す事も出来ませんでしたし、当然耳も殆ど聞こえてはいませんでした。
私は山程レポート用紙を買い漁り、マジックペンの大きな字でいくつもいくつもメッセージを書いてカツに見せました。例えば「ここはH病院。あなたは脳の血管が切れて運ばれたのよ。」とか「きっとすぐに良くなるからね。」とか。その度にカツは少しだけ頭を動かして頷く様な素振りを見せました。今でもそのノートの山々はちゃんと取ってあります。
それから特性の50音表を作りました。あいうえおを全部ばらばらに出来る様にして、カツが目で合図を送った平仮名をひとつずつ拾い、それを別のボードに移します。
そうするとその別のボードの方にカツの言いたい言葉が出来上がると言う訳です。
気の遠くなる様な作業でしたが私はどうしてもカツの言葉を聞きたかったのです。
その50音表を使ってカツが初めて作った言葉は「おんかくもうため」(音楽もう駄目)でした。それは救急車で運ばれて3日目の出来事でした。
私は毎日毎日病院へ通う道すがら、神に(いや、仏でも何でもよかったのですが)「どうか彼に音楽を返して下さい。その代わり必要だったら私の手も足も口も目も皆あげますから。」と泣きながら祈ったものでした。
やがて10日あまりで容態は安定しカツは一般病棟に移る事が出来ました。その間も「もしかしたら喉を切ってそこから呼吸する管を入れるかもしれません。」とか「耳は一生聞こえないかもしれません。」とか「お腹に穴を開けてそこから栄養注入しないといけない身体になるかもしれません。」とか、とにかく様々な『最悪の場合』を聞かされ続けました。そしてその度に「いいや、きっとこの人は助かるにちがいない。神様お願いですから助けて下さい。」と祈り続けたのです。
カツの状態はどんどん良くなっていきました。それは病院関係者も目を見晴る程のものでした。1ヶ月程でリハビリ病院に転院する事ができたのです。「脳血管障害の治療には早期のリハビリが何よりも大切。」と言われていますが、そのリハビリ病院へ転院出来るかどうかさえ分らない人達もたくさん居た訳ですから。私はこれこそひとえにカツの持つ並外れた生命力のお陰だと思っています。「命へのこだわり」「生への執着」それこそが生還の鍵だったと思っています。

今また長いリハビリ生活にウンザリしながらもなお、こうして新しいCDを作り上げました。どうしても自分の生きた証を残したい、そういった強い執念の一心で。
このCDの中にはリハビリ病院に入院中に作られた楽曲も含まれています。唄うどころか、まだ充分に会話も成り立たない様な状況にもかかわらず、私をエレキピアノの前に立たせ(その病院にたまたま私が弾ける楽器があったというのも不思議な巡り合わせですが。)一音ずつ音を拾わせ、くり返しくり返し唄い、そうしてやっと曲を作り
ました。
救急病院のICUで「おんかくもうため」と言ったくせに、やっぱりこの人の身体には音楽がこびり着いているんだなあ、としみじみ思ったものです。
そうやって何曲か作った内の一曲に私がリハビリ病院退院後の生活を歌詞にし、歌を唄う事で今回のCDに入れる事が出来ました。

まだもう暫くは不自由な生活が続くと思っていますが、でもそれは決して永遠ではないと信じています。いつだって医者はうんざりする程「最悪の場合は・・・」としか話ません。そして私はもうそのセリフは聞き飽きたのです。
カツに最悪の場合なんて起こるはずはないのです。それはこれまでの闘病生活で充分証明されていると思います。H病院から、敷居の高いTリハビリ病院(治る見込みのある人しか受け入れないので有名な病院)に転院が決まった時、婦長さんが私を呼んでこう言いました。
「奥さん、私の立場でこんな事を言うのは本当はいけない事なんだけど、ご主人はきっと元の様に回復されますよ。私は何人もの患者さんを見ているから良くわかるの。今のまま自分の信じたやり方で頑張ってくださいね。」それはとても心強い励ましでした。

今回は間に合いませんでしたが、この第2弾、第3弾のCDを作る頃にはまたあのシャガレたカツのヴォーカルや力強いギターサウンドが復活するやもしれません。第3弾に間に合わなかったらまた第4弾を作ればいいのです。皆さんご存じの通り、カツはそういうしつこい懲りない男です。
今回のCDは今までにスタジオで録音した未完成の音源やライブテープなどから本人のセレクトにより構成されています。タイトルのesquisse(エスキース)とは美術用語で大作を作る時にその表現効果を検討する為に作られる「試し描き」の事です。どうか楽しんで聞いてやって下さい。

それからこれからもカツを宜しくお願いいたします。


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